絵画『聖ラウレンティウスの生涯』はフラ・アンジェリコ(Fra’ Angelico / Beato Angelico)は初期ルネサンス期のイタリア人画家の作品です。
ラウレンティウスとは月桂冠をいただいたという意味です。
ローマ七助祭の首席にあげられ、ローマ教皇シクストゥス2世の執事として教会財産の管理と、貧しい人々への施しを担当したラウレンティウスを描いたフレスコ画の壁画です。
現在はイタリアのヴァティカーノ宮ニッコロ5世礼拝堂に貯蔵されています。
天使のような修道士フラ・アンジェリコの人物像
フラ・アンジェリコ(Fra’ Angelico / Beato Angelico)のアンジェリコは天使のような修道士という意味で、本名はグイード・ディ・ピエトロ (Guido di Pietro) です。
フラ・アンジェリコは1400年頃フィレンツェの郊外で生まれ、1420年前後にドメニコ修道会の修道士で、1390年〜1395年頃の初期ルネサンス期のイタリア人画家でもあります。
同時代の人々からは、フィエーゾレの修道士ジョヴァンニを意味するフラ・ジョヴァンニ・ダ・フィエーゾレという名前でも知られていました。
フラ・アンジェリコの初期の作品は、ビザンチン様式を残しながらも、マザッチョの影響を受け、いきいきとした人物表現や遠近法などルネサンス絵画の特徴を残しています。
晩年はローマのサンタ・マリア・ソーブラ・ミネルバ修道院で過ごし、生涯を終えました。
天使のような修道士という名は、彼の死後そう呼ばれるようになったものですが、敬虔なキリスト教徒としての生活に徹していました。
「教会の宝」民衆の守護聖人ラウレンティウス
ラウレンティウスはローマ七助祭の首席にあげられ、ローマ教皇シクストゥス2世の執事として教会財産の管理と、貧しい人々への施しを担当したラウレンティウスを描いた壁画でフレスコ画です。
ラウレンティウスとは月桂冠を戴いたという意味です。
聖ラウレンティウスは257年に教皇シクストゥス2世によって助祭に任じられましたが、その翌年に炮烙(ほうろく)の上で焼かれていまいました。
教皇がラウレンティウスに教会の宝物を託す場面が描かれています。
ラウレンティウスにはニコラウス5世の風貌が与えられており、僧服には殉教者(じゅんきょうしゃ)を示唆する炎で飾られています。
上の画像はラウレンティウスが列柱の並ぶ教会に立ち、貧者にほどこしを与えている場面です。
ローマの長官から教会の宝物を帝国に差し出すように命じられた時、ラウレンティウスは貧者を集め
「これらの人たちこそが教会の宝です。」
と言い、貧しい民衆の守護聖人とされています。
周りの人たちの立場や気持ちを考えて大切なものをしっかりと言えることはとても素晴らしいことですね。
そして教皇ニコラス5世は、この壁画が製作された数年後の1450年を聖年と布告し、聖なる年の初めに普段は閉鎖されているサン・ピエトロ大聖堂のポルタ・サンタ(聖なる扉)が開けられました。
左側では2人の男性が扉を壊すように描かれているので、その出来事を示唆しているのでしょう。
▼関連記事
人文主義教皇といわれたローマのニコラス5世
教皇ニコラス5世(在位1447〜1455年)はローマの偉大な文化的復興と都市の美化に着手した人文主義教皇でした。
教皇ニコラス5世はは豊かな学識で知られ“パレントゥチェリ(本名)が知らないことは人間の学問の領域の外にある”と言われたほど。
コジモ・デ・メディチと通じて、フラ・アンジェリコなど多くの人材をローマに集め、芸術のパトロネージを通して教皇の権威を蘇らせようと企図しました。
建築資材としてコロッセウムから1年間で荷車2300台もの大理石を運びだすという、今では考えられない芸術崩壊の行為をしています。
コロッセウムに使用されている建材は、中世を通じて他の建築物に流用され続けた。つまり一種の採石場とされていたのである。その大理石はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂にも使用されている。それにもかかわらず往時の姿をとどめているのは、迫害されたキリスト教徒がここで殉教したと伝えられていたため、一種の聖地となっていたからである。
引用:Wikipediaより
−後略−
古代ローマの浴場を舞台にした『テルマエ・ロマエ』
古代ローマ時代の浴場と、現代日本のお風呂をテーマとしたコメディ漫画『テルマエ・ロマエ』があります。
古代ローマ人の浴場設計技師が現代日本にタイムスリップし、日本の風呂文化にカルチャーショックを覚えてお風呂の設計を軸に書いたものです。
2013年仏アングレーム国際漫画祭のノミネート作品、米アイズナー賞のアジア部門ノミネート作品に輝き、テレビドラマ『ROME ローマ』にもなっています。
初期ルネサンスの特徴を鮮明に表現した『受胎告知』
フラ・アンジェリコは、メディチ家からの依頼の中でもよく知られているのが『受胎告知』です。
受胎告知では初期ルネサンスの特徴である遠近法がつかわれています。
同じくフラ・アンジェリコの作品として残っているもので、『最後の審判』(1431年)があります。
この作品はフィレンツェのサンタ・マリア・デル・アンジェリ聖堂からの依頼で描かれたもので、この頃はまだ伝統的な手法が使われていて、まだ初期ルネサンス的な特徴はありません。
フラ・アンジェリコは1436年に、フィレンツェのサン・マルコ修道院に移り、1445年まで活躍しました。
この時期のフィレンツェは初期ルネサンスが開花した時期になります。
パトロンとしてメディチ家の後援を得たことで、経済的な心配をすることなく絵画の制作に集中することができました。
伝統的なパターン化した描き方ではなく、写実的な表現がされているのが初期ルネサンスの特徴になります。
キリスト教徒としての生活に徹していた天使のような修道士フラ・アンジェリコの『聖ラウレンティウスの生涯』をご紹介しました。
ルネサンス期のフィレンツェの実質的な支配者メディチ家が財力で、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどの多数の芸術家をパトロンとして支援しメディチ家のコレクションが展示されているウフィツィ美術館もおすすめです。
▼関連記事